なぜ『パパ活』を扱うか?
恋愛ドラマも時代に応じて、様々な題材を取り入れて、話題づくりしている。
少し前なら上戸彩主演の『昼顔』が主婦の不倫というテーマを扱って話題となった。
私が学生だった90年代には『週末婚』なるドラマが話題だった。
若干特殊ながら、『大奥』というドラマは私のゼミの指導教授のマーケティングに基づいて、フジテレビで制作されたドラマだった。
時代設定は確かに江戸時代の特殊な環境だったが、江戸時代の時代性よりも現代の。
男女の、そして女同士の愛憎劇を描いた作品としてブームにもなり、映画まで制作された。
それぞれの時代の彩を帯びてその世相を反映しているのだろう。
それは今の時代とて同じことで、パパ活なるものが流行すれば、当然それをドラマのテーマとなる。
野島伸司脚本のドラマ『パパ活』はそういった文脈で語られるドラマなのだろう。
野島伸司といえば、数々のドラマを手掛けた脚本家であるが、近年あまり彼の脚本というドラマをあまり見かけなくなった。
原因はすでに時代感覚が合っていないとか、過去のドラマのテーマが余りにセンセーショナルだったとかいろいろあるだろうが、そんな彼を起用した理由を想定するなら、恐らく過去のドラマを見て育った世代に対して訴求力があると期待されたからといったところだろうか?
しかし、その世代でFODオンデマドを見る視聴者となるのは一体どれくらいいるのだろうか?
最近深夜帯とはいえ地上波で放映が始まったが、やはりFODだけでは製作費をペイするほど話題にならなかったのだろう(私がこのドラマを知ったのは渋谷駅の山手線プラットホームの広告ポスターだったが、周囲の認知度はかなり低かった)。
そんな付帯的な事情など関係ないという見方も成り立つだろうが、私は寧ろそういった条件も含めて作品というものは見なければならないというスタンスで評価してみたいと思う。
『パパ活』なるタイトルを持ったドラマにとって重要なのはそのパパ活なる男女の新しい関係をドラマとしてどう描写し、それが視聴者に何を訴えるかであって、どういう設定で、その人間関係や背景がどういったものとなるかといったドラマ自体の架空設定の分析と、俳優は誰で、どういったメディアで、どれだけの視聴率を得たのか、その製作費はどれくらいだったか(判れば)、さらにその作品がどういった時代状況で制作されたかという現実の社会の分析はそれぞれに相互に影響しあって一方だけを語ることは意味があるとは考えない。
そういった視点で本ドラマを分析していく。
あらためて本ドラマについて情報をまとめると
まず、主演の二人だが、なせいま渡部篤郎なのか?
彼をみて役の設定のフランス文学の教授というイメージは全くなじまない。
なじまない俳優をあえてキャスティングするほど人気があるわけでもないだろう。
更にヒロインの飯豊まりえに至ってはほとんど知名度もなく、演技力の拙さが鼻につき、なぜ彼女感?は否めない。
導入部のあらすじとしては、母親に恋人ができ、家にいられなくなった大学生のヒロイン(飯豊)は、大学の友人の話を聞き、パパ活を始める。
そこで男性(渡部)と知り合い、肉体関係などは持たず、男性はヒロインに宿泊する部屋を貸す。
そして一人一夜をそこで明かしたヒロインが大学に行くと、新しい教師はその男だった・・・というところだが、パパ活をタイトルとしながらも、パパ活はあっという間に終わり、そこで知り合った、同じ大学の年上既婚男性と交際するというあえていえばタイトルとミスマッチな展開になる。
確かにパパなのだろうが、このタイトルならば、デートクラブを舞台に男女の駆け引きをドラマ化すべきなのではないか?
実際のパパ活で一番大変なのは経済的援助をしてくれる男性を見つける事であって、見つかったら見つかったで、多くの男性は女性にそういった対価を求める以上、男性側の要望を回避する駆け引きが必要となるだろう。
受け入れてしまえば、それはもはやパパ活ではなくなり、タイトルと齟齬をきたすのだから。
受け入れてしまえば、単なる愛人や援助交際であり、更にいうならば、後に語られる男性の、亡くした子供の身代わりをヒロインに求めていたという設定は、パパという言葉からイメージする疑似親子という図式を持ち込んだことが本作品を致命的に表層的なものにしているようにしか思えない。
あえていえば、新しい男女の在り方と言いながら、従来的な家族関係のバリエーションの一つに貶めてしまう。
後半でヒロインと男が肉体関係を持つことも、近親相姦…まるで野島の代表作である『高校教師』のヒロインと父親がそうだった展開のオマージュ?でしかないのではないかと疑ってしまう。
野島はそういった意味で私にはパパ活を知らないか、あるいは美化しようと粉飾したようにしか思えない。
パパ活はあえていえばアイドルに会うためにCDを大量に購入するファンの関係の方が、援助交際や愛人関係よりも近いのではないかと思うのだ。
このドラマを見て最初に感じた違和感は、こういったパパ活をめぐる意味のぶれに起因するようにテーマとしてのパパ活をあいまいなまま、パパ活と称しながら、疑似家族、愛人関係へと至る、実質別の男女関係を描写するに終始している。
その意味で私はこのドラマに大いに失望した。脚本家の野島のこれまでの作品であれば、パパ活をめぐるこのずれに起因するヒロインの甘さから不幸な展開になるくらいのことは期待したかった。
ヒロインに代表される安易なブームに便乗した若い女性たちをこういった幻想が安易なパパ活ブームに誘因し、現実とのギャップから、安易に小遣い稼ぎできると夢見る少女たちを不幸にすることにならないだろうか?
パパ活であれ、交際クラブ活動であれ、その現実を知り、その中で男女の駆け引きを楽しむ分には自己責任でやればいい。
不倫であれ(勿論そのせいで不幸になるかもしれない男性の奥様や子供を忘れてはいけないだろうが)、第三者的立場の人間が批判したところで意味もないだろう。
ただ、そこは男女の駆け引きが常に伴い、夢だけでは危険な現実社会の一部であるパパ活という場も立ちまわることはできないということを忘れてはならないだろう。
残念ながら?冒頭で引用したような時代を代表したドラマたちのような影響力がこの作品にあるとは全く思えないが、全くの的外れのドラマをウケ狙いで作っただろう制作陣の罪は重いと言わざるをえない。